今さら感が強いですが、名作と名高いアニメ『四月は君の嘘』を観ました。
前から評判の良さは気になりつつも、22話観るのがしんどく思えて敬遠していたんです。
しかし、いざ1話を観てみたら止まらなくなり、1日で22話観てしまいました 笑
今まで敬遠していた時間はなんだったんだ…
そしてほとんどの人が泣けると語る最終回は、まんまと泣かされました。あんなのずるいですよね。
ただ、最終回について落ち着いて考えてみると、多くは語っておらず、さまざまな解釈が可能なラストだったと感じました。
語らずに意味を読み取らせるなんて、まるで音楽のようなラストで最高です。
この記事では、アニメ『四月は君の嘘』の最終回を考察していきます。
有馬の演奏家としての実力の秘密

『四月は君の嘘』の主人公である有馬公生は、常に誰かのためにピアノを弾いています。
- 初舞台:おばあちゃんが死んで泣いていた渚を励ますため
- 11歳ごろ:病気のお母さんに元気になってもらうため
- 中学生:かをりに聴かせるため・支えるため
有馬はこれまで、母親やかをりを含むたくさんの人からの支えを受けて歩んできました。
もう会えない人も含め、一生かかっても返しきれないあまりに多くのものをもらっています。
人は恩を感じたら、それをなんとか返そうと思うもの。
演奏家である有馬は、ピアノを通して自分が受けた一生かかっても返せないほどの恩を一生かけて返そうとしているのです。
ライバルでもある相座武士からは「演奏家は音楽で語らないといけない」といった言葉を投げかけられています。
有馬にとってピアノは自分の人生ですし、演奏には彼の人生が鏡のように反映されています。
常に自分ではなく誰かのためにピアノを弾くからこそ、有馬の演奏は聴く人の一生を変えてしまうほどの魅力を持つのでしょう。
かをりは最後に約束を果たした

東日本コンクールでの演奏中、有馬はステージ上でかをりの幻を見ました。
ここからはやや妄想的な解釈になりますが、ぼくは有馬が見たのはかをりの魂だったと考えています。
仏教の教えだと、人の死とは「肉体の死」のことをいいます。
人が死んだ後も魂は残り続けていて、それが輪廻転生し別の命に…といった流れがあるのです。
かをりは死の直前最後の力を振り絞って、幽体離脱のような形で魂のみ有馬のいるステージ上に来ていたのです。
その目的は「もう一度ステージで一緒に演奏するという約束を果たすため」そして「最後のお別れをするため」です。
かをりの肉体がいつ死をむかえたか正確にはわかりません。ただ、病院で手術を受けていた時から、そう長くはなかったのだと思います。
有馬とのもう一度ステージで演奏するという約束は、かをりにとって最大の未練。それを残したままでは、この世をされません。
肉体はもうステージに立つことはできないので、最後に魂として有馬と共演しました。
演奏を終えた後、かをりは涙を流しつつ微笑んで姿を消します。
最後の涙は有馬との別れに対する悲しさと、もう一度共演できたことへの喜びからのものでしょう。
また、演奏が終わると同時に消えたのは、客席からの喝采を有馬だけに浴びてもらうためです。
自分は通り過ぎる人間であり、演奏家として称賛されるのは有馬だけで良いという考えからです。
かをりにとって有馬と共演することは、ヴァイオリンを始めた理由であり人生の全てでした。
それを最後に再び叶えられたのなら「宮園かをり」として幸せな人生だったといえます。
相座と井川の完全敗北宣言

引用:https://www.kimiuso.jp/sp/story/07.html
アニメではカットされていましたが、原作では東日本コンクールでの有馬の演奏を聴いた後の相座と井川の姿が描かれています。
「やっぱすげーなあいつ」とつぶやく相座に対し、井川は以下のような言葉を投げかけます。
私たちは旅をするんだね…
あいつの背中を追い続けて ー
これまでも これからも
上記のように井川は、演奏家として有馬の背中を追い続けることを感じ取っています。
追い続けるということは、一生追いつけない・追い越せないということ。
肩を並べることすら叶わず、背中が見える位置にいることしかできないことを意味しています。
つまり井川の発言は、有馬への完全敗北宣言とも受け止められます。
それに対し相座も「ああ。きっとそれは素晴らしい旅になるよ」と答えています。
相座も井川と同じ気持ちを抱いていたということです。
これまで相座と井川は、有馬への対抗心をモチベーションにピアノを弾いてきました。
その2人が敗北宣言ともとれる発言をするから、有馬の演奏が相当なものだったことがわかります。
また、2年ぶりに舞台に戻ってきた有馬は「自分を支えてくれた人のために弾く」ことで、聴衆を沸かせる演奏をしています。
特に自分にピアノを弾くきっかけをくれた、かをりに対する想いが強く込められています。
相座と井川はかをりと会ってませんし、かをりが有馬に何を与えたのかも知りません。
それでも相座は「この演奏は告白だ」と言っていたため、かをりの存在や何が有馬を変えたのかは感じとっていたはずです。
つまり相座と井川は、有馬の演奏ではなく人生そのものに打ち抜かれたとも読み取れます。
演奏家が他人の演奏に打ち抜かれるのは相当な屈辱。2人の有馬への対抗心を考えればなおさらです。
ただ、演奏を聴いた後、2人とも穏やかな表情(井川は涙を流す)をしていました。
演奏家として有馬の背中を追い続けることを悪く思っていないし、有馬のこの先の人生を見続けたいと考えているのでしょう。
かをりの手紙の「ごめんね」の意味

有馬が受け取ったかをりからの手紙では、いくつもの「ごめんね」が語られている
カヌレ全部食べれなくてごめんね
たくさん叩いてごめんね
わがままばかりごめんね
いっぱいいっぱいごめんね
言葉ではごめんねと謝っていますが、ぼくには全部ありがとうと言っているようにしか聞こえませんでした。
- カヌレを持ってきてくれてありがとう
- たくさん叩いたけど、一緒にいてくれてありがとう
- わがままを聞いてくれてありがとう
- いっぱいいっぱい、ありがとう
本当に伝えたいのは「ありがとう」という感謝の気持ちですが、ごめんねと伝えているのはかをりの後悔が滲み出ているように思えます。
椿の言葉に対する有馬の表情の意味

かをりがいなくなって落ち込んでいるであろう有馬に、椿は2度目の告白とも取れる言葉をぶつけました。
「私はずっとそばにいる、いなくならない。だからこの先、絶対1人にはならない」という意味を込めた椿なりの励まし方です。
それに対し、有馬は特に返事をするでもなく、どこか悲しげな笑顔を見せます。
椿が自分に恋心を持っていることははっきり自覚しているため、言葉の意味ともしっかりわかっています。
それでもこの時点では、まだかをりがいなくなったことを受け止めきれてはいませんでした。
それはラストシーンで、かをりのいない春に心を傾けていたことからも窺えます。
今後有馬の中から、かをりの存在がいなくなることはありません。
椿も有馬にとってかをりがどんな存在なのかも理解しています。
椿は有馬に自分より好きで大切な存在がいることをわかっていて、それでもそばに居続けようとしているのです。
かをりが手紙に書いていた通り、有馬のことが本当に大好きなんだなと思わせる場面でした。
2人の今後については描かれていませんが、おそらく椿の言葉の通りになり、有馬を支える存在になるでしょう。
ラストシーンで現れた黒猫と春風の意味

ラストシーンで踏切の向こうに黒猫の姿が描かれています。
これはかをりの生まれ変わりであり、今の有馬の様子を見にきたのではないかと推測しています。
黒猫がいなくなった後、春風が吹き桜の花びらが舞い上がるシーンが描かれています。
春風は中国語で「満足した表情・微笑み」という意味があります。
有馬のそばに椿がいて彼が1人ではないことがわかり、もう大丈夫だと満足した表情で黒猫(かをり)が姿を消したのだと感じられます。
かをりの宝物だった写真をピアノの上に置いている意味

かをりは憧れの存在の有馬と偶然一緒に映った写真を、宝物として大切にしていました。
5歳のころの写真を14歳になっても持っていたのは、有馬の演奏を聞いて以来ずっと憧れ続けていたことの表れです。
有馬とは14歳の春に知り合いますが、2人で写真を撮ることはありませんでした。
唯一2人で写っている写真という意味でも、かをりにとってて大切なものだったでしょう。
かをりからの手紙に同封する形で送られたこの写真は、写真たてに入れられ有馬が弾くピアノの上に手紙と一緒に置かれています。
それは有馬が、今もかをりのことを想ってピアノを弾いていることの証といえるでしょう。
かをりの死後、有馬はどれくらいでピアノに向かえた?

有馬は母親の亡くなった後は、音が聞こえなくなりピアノから遠ざかっていました。
有馬に対して、かをりはあまりに多くのものをもたらしました。
かをりがいなくなったことは、そう簡単に割り切れるものではないでしょう。
また、有馬は雪の降る時期にかをりの両親から手紙を受け取りますが、読むのは桜が舞い始めた春の時期です。
手紙もすぐに読めていないのですから、やはりある程度ピアノが弾けなかった期間がありそうです。
最終回では、師事する瀬戸紘子の前でピアノを弾いている姿が描かれていますが、これはかをりの手紙を読んで想いを受け止めた後ではないでしょうか。
手紙を読んだ後、有馬は「お礼を言うのは僕なのに」と口にしています。
亡くなっている以上直接お礼を言う手段はありませんが、唯一かをりに想いを伝える方法があります。
それがピアノを弾くこと。
有馬にとってピアノは、かをりへの数えきれないごめんねとありがとうを伝える手段にもなっています。
有馬のピアノを聴きながら紘子が「また一段と色っぽくなって」とうっとりしていたのも、かをりへの純粋な想いを感じ取っていたからでしょう。
まとめ
前から評判の良さは聞いていましたが、いざ観てみるとそれも納得のストーリーでした。
この記事を書くにあたって最終回を何度か見返しましたが、その度に泣いてしまっています←
できればかをりが死なずにすむラストを観たかったですが…それだと陳腐な作品になってしまう気も。
悲しいですが、このラストが最善だったように思います。
ストーリーはもちろんのこと作画、音楽、声優さんの演技と、非の打ち所がない名作でした。
もう少し気持ちが落ち着いたら、1話から見返してみようと思います 笑






