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「君の膵臓をたべたい」の桜良に学ぶ多生の縁と生きることの意味

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今さらという感じですがこの間「君の膵臓をたべたい」を読みまして。

こういった感想記事も書きました。

【感想】「君の膵臓をたべたい」なんて読まなければよかった – 満喫ぶろぐ

今回は内容についてではなく、膵臓の病気をかかえたヒロイン山内桜良に注目してみます。

桜良は病気で一年後には死ぬことがはっきりしていたにも関わらず病気になる前と同じようにいつも笑顔で過ごしていました。

偶然知られてしまった主人公を除けば家族以外の誰にも病気のことは話していませんでした。

桜良はいったい何を大切に生きていたんでしょうか?

生きるとはどういうこと?

物語の流れについては割愛しますが、主人公が桜良にたいして「君にとって生きるっていうのはどういうこと?」と質問する場面があります。

腕を組んでしばらく考えた上で「うん!そうだな!これだ!」とこう答えました。

「きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ」

 「私の心があるのは、皆がいるから。私の体があるのは、皆が触ってくれるから。そうして形成された私は、今、生きてる。まだここに生きてる。だから人が生きることには意味があるんだよ。自分で選んで、君も私も、今ここで生きてるみたいに」

桜良にとって人とのつながりは生きることそのものでした。

人は生きるうえでいくつもの縁に支えられています。

主人公は人と関わりをもとうとせずいつも本を読んで過ごしていましたが、その本だって作者や編集者、出版社や本屋という縁があることで読むことができています。

どんな人もたくさんの縁の中で生きています。

桜良はそのことが分かっていたのでしょう。

いつも友達と笑いあっている桜良の中には「みんながいるから生きている、自分が存在している」という感謝の気持ちがありました。

そしてそのことを心の底から幸せに思っていました。

いつも笑顔だったのもその気持ちが溢れた結果かもしれません。

人との出会いは自分の意思

「私達は皆、自分で選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と私が今までしてきた選択が、私たちを会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ。 

人は生きていればものすごい数の人と出会います。

好きな人だけでなく中には嫌いな人もいて、そういう人と関わっていくことは苦しみにもなります。

日本だけで考えても1億人もの人口です。

そのすべてに出会おうとしたらどのくらいかかるんでしょう?

一生かかっても足りませんね(^^;

袖触れ合うも多生の縁ということわざがあります。

人との縁はすべて単なる偶然ではなく深い因縁によって起こるものだから、どんな出会いも大切にしなければならないという意味のある仏教の言葉です。

多生とは何度も生まれ変わることで、多生の縁とは前世で結ばれた縁のことです。

つまり人との出会いは前世から何度も会っては別れてきた深い因縁だということです。

桜良は仏教徒ではないし本も読まないからこのことを知っていたわけではないでしょうが、同じような考え方をもって人とのつながりを大切にしていました。

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死ぬ前にやりたいこと

病気のことを話してからは桜良は主人公とよく一緒に行動するようになります。

主人公は桜良にたいして「残りの時間を本当にしたいことに使ったほうがいい」といいました。

しかしその後も桜良は今までと同じように毎日を過ごし、主人公と焼肉を食べにいったりスイーツパラダイスに行ったりしていました。

桜良は友達や家族と過ごすいつもの日常を大切にしていました。

それはまさに桜良にとっての生きることだからです。

病気のことを親友にも話していなかったのはそれを話すと日常を取り繕おうと必死になると思っていたから。

桜良はそれを何よりも嫌がりました。

桜良は周りの人と過ごすいつもの日常に幸せを感じ生きていると思えていたからです。

病気のことを話してその日常を壊すことは絶対に出来ませんでした。

桜良にはいつもの日常を過ごすことができていれば他に何も必要ありませんでした。

主人公に言われるまでもなく「死ぬまでにやりたいこと」を思いのままにやり続けていたんです。

まとめ

この小説においては「人はいつ死ぬか分からない」とか「毎日を大切に生きよう」といったことを感じる人が多いですが、人とのつながりについてもかなり深いことが書かれています。

主人公である「僕」と桜良のふたりには本当にたくさんのことを教わります。

ちょっと違う視点で読んでみると別の感動が味わえますよ!