
映画「三月のライオン」後編の主題歌がスピッツ「春の歌」の藤原さくらによるカバー曲に決まりました。
原作者の羽海野チカさんが連載構想時に「春の歌」を聴いていたようで、そのことから決まったものと思います。
スピッツファンの評価はあまりよくないようです。スピッツにかぎらずカバー曲は原曲のファンに否定的にとられがちです。
それはなぜでしょうか?じぶんなりに考えました。
マサムネさんのボーカルはマネできない
当たり前ですが、スピッツのマサムネさんが歌っているのではないことが大きな違いです。
ぼくはマサムネさんの歌い方はだれにもマネできないものだと思います。
スピッツのライブにいって感じたことですが、マサムネさんは肩の力をぬいて歌っていて、ライブの最初から最後までCDクオリティです。
ライブではファンの人が多いので派手な曲をやったときは特に盛り上がりますが、そんなときでもマサムネさんは肩の力をぬいて歌います。
ぼくは吹奏楽をやっていますが、「ここを聴かせたい!」というところではどうしても力が入ってしまいます。どうしてあんなに肩の力をぬけるのか不思議です。
スピッツのメンバーも同じです。マサムネさんの曲をどう表現するのが一番いいかを考えて演奏しているので、よけいな主張をすることはなくマサムネさんのボーカルを中心とした音作りです。
バンド全体として歌を聴かせようという意識があり、それがスピッツの曲のよさにつながっていると思います。
カバー曲ではそのスピッツのよさはなかなかだせません。スピッツのカバーはかんたんにできるものではないと思います。
だからこそ違和感が強いんだとおもいます。
カバー曲はちがって当たり前
「春の歌」のアレンジが受け入れられていないところもあるようですが、違うアレンジで歌うのは当たり前のことだと思います。
カバー曲はカラオケではありません。歌う人のよさがでるアレンジで歌うべきだと思います。
吹奏楽ではオーケストラの曲を吹奏楽用に編曲したもの演奏することがよくあります。
しかしもともとは弦楽器で演奏しているものを管楽器で演奏すると、どうしても違和感が出ます。プロの演奏であっても弦楽器じゃないという違和感は残ります。
ですがオーケストラの曲を吹奏楽で演奏することで、オーケストラでは分からなかったその曲の違うよさが感じられます。オーケストラの曲を吹奏楽でやることの意義はここにあると思います。
今回の「春の歌」のカバーも曲調がかわると歌詞の意味が原曲と違うように感じられて、「春の歌」のちがうよさがでていて、これはこれでおもしろいと思いました。
カバー曲が原曲とちがうのはあたりまえです。だからその曲のちがうよさを感じながら聴くのがいいと思います。
評価されていないとカバーされない
カバーされるということはその曲がそれだけ認められているということです。評価されていない曲はカバーされません。
オーケストラではいい曲は何度も演奏され、100年以上たっても残っています。いい曲は作曲者が亡くなった後も演奏され続けることで残っていきます。
アレンジが好きになれないなど、カバー曲を受け入れられないのは好みのちがいもあるので仕方ないことです。
ですがせっかくカバーしてくれているのに悪くいうのはどうかな?とおもいます。
「原曲を使ってほしい」という意見もありますが、原曲だと疾走感があって映画にあわないんじゃないかとおもいます。
スピッツだってカバーしてもらえてうれしいはずです。特にマサムネさんは「女の子に歌ってもらえるとうれしい」らしいですし 笑
まとめ
まずカバーしてくれたことに感謝したいです。
スピッツがやっているカバーだって原曲が好きな人からしたら不満かもしれません。声が高すぎるとか。
原曲と違ってあたりまえ、そう思って聴くと楽しめるとおもいます。
読んでいただきありがとうございました(^ ^)
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