仏教

映画「歎異抄をひらく」の感想。歎異抄とストーリーが調和した一作だった

こんにちは、リュウです。

鎌倉時代後期に書かれたものでありながら、世界的に注目されている歎異抄。その内容を解説した「歎異抄をひらく」が映画になったので観てきました。

歎異抄自体かなり難しいものです。しかしこの映画は歎異抄の教えをわかりやすく伝え、物語としても成立させている完成度の高い作品でした。

この記事では、映画のかんたんなあらすじと感想を書いていきます。

映画「歎異抄を開く」のあらすじ

鎌倉時代、1200年代前半。貧しい農家に生まれながらも賢く利発な平次郎は、ある日、親鸞聖人と出会い、多くを学び成長していく。

やがて京に戻った親鸞聖人を追って故郷を離れた平次郎は、「唯円」という名を授かり、仲間たちとともに親鸞聖人のもとで仏教を学ぶ。そんな中、かつての友人が苦境に立たされていると知った唯円は、なにもできない自分への無力感にとらわれ苦悩する。なぜ、善人よりも悪人が救われるのか? 人は、なぜ生きるのか?

「すべての人間が悪人であり、救われるために条件はない」という親鸞聖人の言葉の真意が、解き明かされていく――。

(公式サイトより)

稲田で農家の家に生まれた平二郎(のちの唯円)はある日、同じ村に住む新太・権八・アサの4人で山の仲まで来ていました。
そこに野生の熊があらわれ襲われそうになったところを、明法房(みょうほうぼう)と名乗る男に助けられました。

彼は浄土真宗の宗祖(創始者)とされる「親鸞聖人」の弟子であり、この出会いがきっかけで平二郎を含む4人は、親鸞聖人とも知り合います。

初めて会ったときに、4人は仏教の教えとして「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という言葉を聞かされました。これは「善人でさえ救われるのだから、悪人ならなおさらだ」という意味の言葉です。

誰でも疑問に思うことでしょうが、普通は「悪人でさえ救われるのだから、善人ならなおさらだ」となるべきですよね。しかし仏教では、善人よりも悪人こそ救われるのです。

この言葉を含む仏教の教えに最も関心を示したのが平二郎で、家の田植えの手伝いの合間を見つけては、親鸞聖人のもとに仏教を教わりにいくようになりました。仏教で教えられている本当の幸せに向かって熱心に学んでいた平二郎でしたが、彼の目の前には救いからはほど遠い、絶望的な現実が次々と押し寄せてくるのでした。

映画「歎異抄をひらく」の感想

歎異抄の内容と調和した「人生の目的」を伝えてくれるストーリー

すでにこの映画を見た方から、「最初から最後まで歎異抄の教えが切れ目なく伝えられている」という感想を聞いていました。
こう聞いてぼくは「それだとストーリー性は薄いのかな」と予想していました。

ところがそんな予想はすぐに吹き飛びました。

ストーリー性が薄いどころか、普通に物語が面白い。
その上、歎異抄の内容がストーリーと見事に調和していて、無理やりねじ込んだ感じがありません。むしろ歎異抄の内容が、ストーリーをさらに引き立たせていました。

これってなかなか難しいことです。哲学的な知識を物語に盛り込もうとすると、どうしてもストーリーが薄くなるし、最初はよくてもどこかで不自然なところが出てきます。
(「幸福の科学」の映画にそういうところがあるとか。見たことないけど)

しかし「歎異抄を開く」にはそれがない。初めて親鸞聖人の言葉を聞くところでの4人の物分りが良すぎる気がしますが、強いて言えばそれくらい。

とにかく歎異抄の教えとストーリーのバランスが抜群でした。

「仏教は聞くひとつ」←それが1番難しいよ

仏教では、「絶対の幸福」といわれる状態になり、極楽浄土にいくことを目指しています。いろんな教えがありますが、仏教は聞くひとつで救われるものなので、真剣に聞き続けることが重要です。

ただこういうと「え?聞くだけでいいの?簡単じゃん!」と思うもの。でもこれが1番難しいんですよね。

映画の中でも、平二郎は最初はなんの迷いもなく、親鸞聖人の言葉を聞いていました。しかしある出来事がきっかけで、平二郎には仏教にたいする疑いの心が湧き始めます。さいわいすぐに親鸞聖人に問いただしたおかげで仏教からは離れませんでしたが、ここで仏教を聞くのをやめていたかもしれません。

そして兄弟である権八とアサもとあるきっかけで仏教から離れ、同じ境遇であったにもかかわらず、まったく違う運命をたどることになっています。

映画のようなことはそう起きないですが、仏教を聞いていればどこかで必ず疑いの心が芽生えます。ぼく自身も仏教を聞くことが嫌になった時期がありました。だから、仏教を聞き続けることって難しいことなんです。

映画の冒頭が実写化と思った

前作「なぜ生きる」でも、背景などのアニメーションのクオリティの高さは、多くの人に評価されていたポイントだったと思います。
「歎異抄をひらく」は『なぜ生きる』の続編のような立ち位置ですので、今回もアニメーションのレベルは高いものでした。

特に驚いたのが、冒頭で唯円が筆で歎異抄の1文を書いている場面。

ぼくは冒頭のシーンを見たとき、実写映像かと思ったので、「歎異抄をひらく」がすでに始まっていることに気づきませんでした。
「えっ、今のアニメだったの?」と、冗談じゃなくほんとに思ったんです 笑

大事なシーンだからこそ、特に気合を入れて映像を作ったんでしょうね。いやー、しかし驚いた 笑

仏教を知らないと納得できそうにないところも

歎異抄の内容をわかりやすく解説し、なおかつストーリーとしても成立させている。
そんな映画ですが、仏教を知らないと「え?」となりそうな場面も。

たとえば親鸞聖人が京都に戻ることを決意したとき、平二郎は後を追いたいと思いつつもなかなか決心がつきませんでした。そのとき彼の父親が病に苦しんでいたので、父親をおいて京都にいく決断ができなかったのです。

最終的に新太の説得を受けて京都に行くことを決意しますが、ここは仏教をまったく知らない人には理解出来ない場面だと思います。

仏教を知っている人なら、人生で仏教を聞くこと以上に大事なことはないからこその決断だと言うことが理解できます。ただ仏教を知らない人からすると、「病気の親を見捨てて自分の欲を優先した」というように解釈されるかもしれません。
このシーンに関しては、もう少し平次郎の葛藤があってもよかったんじゃないかと思います。

映画1本で仏教のことを伝えるのは難しいですが、仏教を知らない人が見たらどう感じるのか疑問です。

ボーイズラブみたいなシーンがある

ちょっと気になったのが慧信房のことです。

「歎異抄をひらく」の登場人物は、服装をのぞけばみんな現代風の容姿をしています。別に当時の姿を再現しろとは思わないですし、それは構いません。

ただ慧信房はなぜああいう風貌だったのか。。。だいたい彼の容姿は、最近メディア出演が増えている元No.1ホスト、ローランドそっくりです。

どうでしょう、結構似てませんか?ぼくの場合、映画が始まる前にスマホでローランドの本を読んでたから、なおさらそう思うのかもしれませんが 笑

ちなみに彼の本はかなり面白かったです。

それとちょこちょこ「ボーイズラブか?」と思うようなシーンも。特に慧信房が初めて登場したシーンなんて、完全にそれでしたよ。

若い人を意識したのかもしれませんが、それはちょっと違うのでは…?

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まとめ

ぼくとしては十分すぎるほど楽しめた映画でした。歎異抄自体奥が深いですから、映画も1回見ただけですべてが理解できるものではありません。繰り返し見て、理解を深めていかないといけませんね。

仏教は聞き続けることが大事ですが、この映画も繰り返し見続けることが大事な映画です。果たしてすべてを理解出来る日はくるのか^_^;
理解できるようになることを目指して、今後も仏教を学び続けたいと思います。