満喫ぶろぐ

2つの吹奏楽団でTubaを演奏する楽器歴10年目。富山県在住。スピッツはたぶん一生好き。小心者でビビリながらも興味のあることはいろいろやってみるタイプ。

ヘレンケラーの恩人の日本人って?「目が見えるということは不自由なものだ」

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ヘレン・ケラーのことはほとんどの人が知っているでしょう。

視覚、聴覚、言葉を失う苦難を乗り越え福祉事業の発展に身を捧げた方です。

 

ではその活躍の背景に一人の日本人がいたことはご存知ですか?

 

それが塙保己一(はなわほきいち)。

江戸時代に活躍した盲目の国学者です。

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母親から「塙先生をお手本にしなさい」と言われて育ったヘレン・ケラーは、その存在を支えに勉強を続けました。

ヘレン・ケラーが「塙先生のことを知ったおかげで障害を克服できた」と感謝の言葉を述べるほどです。

いったいどんな人物だったんでしょうか?

 

7歳のときに失明

武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県)で生まれた百姓の子です。

 

小さいころから体は丈夫ではなかったですが、5歳のときに疳(かん)という病気にかかったことで視力がどんどん弱っていき、7歳のときに失明しました。

修験者に「名前と生まれ年の両方を変えなければ目が治らない」と言われて名前を変え、年齢を2つ引きましたが目が治ることはありませんでした。

 

目が見えなくなってからは手のひらに指で字を書いてもらうことで文字を覚えていきました。

草花を手で触ったりにおいをかぐことで見分けることが出来たほか、目が見えなくなってから家族から聞いた話を一切忘れず、一語一句間違うことなく話せるほど記憶力がよかったといいます。

 

江戸に出て学問を始める

15歳のときに江戸に出てきて、約3年間盲人として修行したのち、17歳で盲人の職業団体である当道座の雨富須賀一検校に入門します。

 

雨富須賀一検校では国学や和歌、漢詩や法律、医学などの学問を学びました。

目が見えないため、人が音読したものを暗記するという勉強法でした。

 

師匠は保己一が体が弱いことを心配して、21歳のとき父と関西へ旅行に行くことをすすめます。「旅をすれば丈夫になるだろう」という考えからです。

2ヶ月の旅行を終えたころには丈夫な体になり、さらに学問への集中力が高まったといいます。

 

41年かけて「群書類従」の執筆

 

34歳のとき「群書類従」の執筆を始めます。

これは日本の古い貴重な文書が焼けたり紛失しても後世に伝わっていくように印刷したようなものです。

 

集めた文献を弟子に読み聞かせてもらいながら頭の中で組み立てながら、41年もの歳月をかけて全部で666冊もの量を書きました。

塙保己一の頭の中には6万もの古文献が暗記されていたという説もあります

群書類従」は日本の重要文化財に指定されています。

 

塙保己一には目が見えないという障害がありました。

しかし障害を言い訳にすることなく努力を重ねていったことで、健常者でもできないような大偉業を成し遂げました。

 

目が見えるのは不自由

塙保己一にはこんな逸話があります。

 

彼が弟子たちを集めて講義を行っていたときのことです。

日が落ちて真っ暗だったのでろうそくを灯して講義をしていたんですが、途中でろうそくの火が消えて周りが真っ暗になってしまいました。

 

とつぜん真っ暗になったので弟子たちは慌てました。

 

弟子たちがあわてていることを知り、彼はこう冗談を言いました。

「目が見えるということは不自由なものだ」

 

塙保己一は目が見えないことはまったく気にしておらず、人がみんな見た目が違うのと同じような、ひとつの違いくらいにしか考えていなかったんじゃないかと思います。

 

目が見えないことはハンディキャップですが、それを出来ない言い訳にせず努力したことで大きな成果をだしました。

自分で限界を作らずに物事に取り組んでいきましょう。