満喫ぶろぐ

2つの吹奏楽団でTubaを演奏する楽器歴10年目。富山県在住。スピッツはたぶん一生好き。小心者でビビリながらも興味のあることはいろいろやってみるタイプ。

「死」に年齢は関係ない

ぼくの母校、富山商業の先生の訃報がとどきました。

がんのため、40歳の若さだったようです。

 

相撲部の指導をしていて、先日の大相撲で幕下優勝をした石橋力士を指導していたのがこの先生でした。

 

教え子の優勝を見届けて半日後に亡くなったそうです。

 

ぼくは高校のときはあまり関わりのなかった先生でしたが、相撲部の指導で印象に残っていた先生だったのでかなり驚きました。

 

40歳というのは早すぎるな、とおもいます。

 

先生の訃報をうけて、ぼくが仏教で学んでいる内容を強く実感せずにはいられませんでした。

 

 

「死」は年齢に関係なくやってくる 

ぼくたちは普段じぶんがいつ死ぬかなんて考えることはありません。

 

平均寿命が80歳くらいなので、若いうちは「じぶんが死ぬのはまだ先のこと」とおもっています。

 

しかし高齢の人のほうが死が近いとか、若いから死ぬのはまだ先とは限りません。

 

仏教の有名な教えであり、葬儀などでよく読まれる「白骨の章」というものがあります。

 

ちなみに葬儀で読まれるお経には、仏教で教えられている幸せになる方法が書かれています。これは亡くなった人に向けて読まれているものではなく、生きている人たちにむけて読まれたものです。

 

「白骨の章」の中にこんなことが書かれています。

 

 

されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。

 

 

これはどういうことかというと、朝にはいつものように元気だった人がその日のうちに亡くなって、夕方には白骨になっていることもあるということです。

 

どんな人でも死んでしまえばどれだけ呼びかけても生き返ることはありませんし、火葬すれば白骨しか残りません。

 

たとえば交通事故などの予測できなかったことが起きて、突然亡くなってしまう可能性は誰にでもあります。いつ死ぬかはだれにもわかりません。

 

人はいつか必ず死ぬし、死の可能性はだれにでもあります。しかし人は「じぶんがいつか死ぬ」ということを知っていながら、それを忘れて毎日をすごしています。

 

 

人が生きる意味 

仏教を学ぶことはいつか必ずやってくる死に対して備えることにもなります。

 

仏教では人が生きるのは幸せになるためだと教えられています。

 

仏教で教えられている幸せはお金、家族などによってもたらされるものではありません。

 

お金は使えばなくなるし、家族は生き別れもあれば死に別れもあります。

 

いつかなくなる、続かないものです。これらは本当の幸せではありません。

 

仏教で教えられているのは何があっても変わることのない本当の幸せです。

 

また、仏教は死んだあとの幸せを求めるものとおもっている人が多いですが、そうではありません。

  

仏教生きている今、幸せになることのできる教えです。そして生きているうちに幸せにならないと、死んでから救われることもありません。

 

前述したとおり人はいつか死ぬし、それがいつになるかはわかりません。

 

このことを心にとめておき、幸せになるための行動をしていかなければいけません。

 

 

 

以前富山のテレビに出演していたのをみて、昔と変わらず指導に力を入れている印象を受けていました。惜しい人を亡くしたとおもいます。

 

ご冥福をお祈りいたします。