満喫ぶろぐ

2つの吹奏楽団でTubaを演奏する楽器歴10年目。富山県在住。スピッツはたぶん一生好き。小心者でビビリながらも興味のあることはいろいろやってみるタイプ。

「もう死にたい」とおばあちゃんは言った。ぼくは生きる意味が分からなくなった

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ぼくが最初に人の死に接したのは中学2年の時。ひいおばあちゃんが亡くなったときでした。

 

肺炎で92歳でした。高齢になると肺炎は治りにくいそうです。

 

まだおばあちゃんが病気になる前の会話と亡くなった時に感じたことがあります。ほんと生きるってなんでしょうね。

 

「もう死にたい」

小4の時、ぼくはおばあちゃんが長生きしているのをなんだかうれしく思っていました。

テレビを見ているとたまに100歳すぎても元気な方が映っていました。あんな風になってほしかったし、おばあちゃんもそうだと思っていました。

 

ある時ぼくはおばあちゃんに「いくつまで生きたい?」と聞いてみました。この質問もおかしい気がしますが、当時は純粋な気持ちで聞きました。

 

100歳とか具体的な年齢が出てくると思っていたら、おばあちゃんは「もう死にたい」と答えました。

 

この話をするとぼくがショックを受けたと思われますが、特にショックはありませんでした。ただ「違うんだ」とは思いました。

 

ぼくはみんな長生きしたいものだと思っていて、100歳まで生きることを目標にしていると思っていました。

 

でもおばあちゃんはそうじゃなかった。

「長く生きていると死にたくなるんだ。それくらいおばあちゃんは生きたんだ」

そう思い、長生きするのが怖くなりました。

 

亡くなった時に思ったこと

死にたいという言葉を聞いてから4年たったころ、おばあちゃんは亡くなりました。

 

おばあちゃんには小さいころよく遊んでもらっていたのに、亡くなったと聞いてからお葬式の最中までなぜだか悲しいという気持ちがわきませんでした。

 

言い方が悪いかもしれませんが「あっけないものだな」と思いました。

92歳まで生きようが結局最後は死ぬ。長生きしようとそれは変わらない。92歳も14歳も同じことなんじゃないのか。

 

ぼくは長生きしたいと思っていました。いくつまで生きたいか聞いたのもそんな考えがあったからです。

 

でも結局死ぬんだったら長生きしようが今日死のうが同じことに思えてきました。

 

ドラマや映画のように泣き崩れる人もなく形式的にお葬式が行われて、その後何事もなかったように生活していっている。

 

人の命が重いんだと言われますが、死んだって何も変わっていないので、生きる意味が分からなくなりました。

 

といっても大人でも出せない答えを当時14のぼくに出せるはずもなく、頭の片隅に追いやられていきました。

 

幸せになりたい

一昨年、仏教を聞く機会がありその後続けて勉強しています。

 

仏教は簡単にいうとお釈迦様が生涯かけて説いた本当の幸せになるためにどうすればいいかが教えられたもの。神に祈るとかそういうことは一切ないし、むしろ否定しています。

 

仏教では幸せになることが生きる目的だと教えられています。

幸せになれないのは苦しみがあるから。その苦しみを取り除いていくのが仏教の考えです。

 合理的な考えなので、段々受け入れていきました。

 

ずっと生きる意味が分からずにいましたが、幸せになるのが目的なんだと今は思っています。

 

まとめ

死にたいと言っていたおばあちゃんが最後にどう思っていたのかは分かりません。ホッとしていたのかもしれないし、やっぱり死にたくないと思ったかもしれません。

 

どちらにせよ、幸せな人生であったことを願い、ぼくも幸せを求めて生きていきます。

 

 

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